量をこなすことと、才能について思うことの続きです。

写真は自分が練習で使ったクロッキー帳と、その中身です。
ある教本に「手のクロッキーを100枚描けば上手くなる」と書いてあったので(本のタイトルは忘れてしまいました)、自分は1000枚描こうと思いました。
それは、周りに比べて自分がとんでもなく下手で、少しでも上手くなりたかったからです。
実際にそれくらいは描いたのではないかと思います。1000というと一見大きな数に見えますが、1日3つずつ描けば約1年です。




1枚目、2枚目は始めたばかりの時の絵で、3枚目、4枚目は後半に描いた絵です。
今見てもだいぶちがうなと思います。また、ここではわからないちがいは、描き上げる早さです。
最初は1枚描き上げるのに、30分近くかかっていましたが、最後の方は5分くらいになりました。
ただ、ここでお伝えしたいのは、「自分はこれだけやったぜ!すごいだろ!」ということではありません。
これの意味するところは、「これだけやらないと上手くならなかった」という自慢にも何にもならない、量をこなすことでようやく上達したという『才能のなさ』です。
勉強でも、創作についても、「才能」ということにとても敏感になる人が多いと思います。
絵が上手い子、勉強ができる子、そういう子はいます。
ただ、確実に言えるのは「何もやらないで上手くなった人はいない」です。
できる人は、何にもしないでできているように見えて、隠れてやっている。これは絶対。確実に。
才能とか天才というと、数少ない努力で(もしくは何もしないで)、最大限のパフォーマンスを出せる人のように思われているのかなと思います。
だから、いつの時代も「おれは勉強しなくても点数取れる」というのが頭の良い人のように思われているみたいですが、まぁそんなことないです。たまたまです。
たまたまの才能に浸るのも、心地良いかもしれませんが、自分の絵が成長していくのを見て、「成長した」と実感を得られることも楽しいです。
その実感はこれからも何度も経験できることですし、実際に何かの役に立つのはその経験だと思います。
絵を描いていると、どこでも誰かが言い出すのは「才能が〜」という話題だったので、それに触れてみました。
絵ってべつに、才能がなくちゃ描けないものではないし、描いていけないものでもないはずです。
それに今の子たちは、みんな十分上手いです。
少なくとも自分が小さかったときよりは。本当に。
だから自信を持って、と言うわけではないですが、そこまで気にする必要はないです。
描いていればいずれ上手くなるものです。
「いや、描いているのに全然上手くならないんです!」
という方は、ぜひ塾・画塾katariへお越しくださいませ。
もしかしたら上手くなります。(植田)